まとまりのない話

題名の通り本当にまとまりのない
ただのひとりごとです。すみません。
 
 
 
 
 
昨日は
ヒンドゥーのお葬式に行ってきました。
死を間近に感じたのは久しぶりです。
 
 
写真を撮っている人がいました。
笑っている人がいました。
暑いなーと言っている人がいました。
着信音を鳴り響かせている人がいました。
泣いている人がいました。
 
色んな人がいます。
 
死んでたくさんの人が集まってくれるのが
ええことやと思ってたけど
そうでもないのかも。
 
 
火葬場に行きます。
山のてっぺんに行きます。
男だけが行きます。
 
箱に入っています。
お祈りをします。
箱から出されます。
薪の上に置かれます。
花を添えます。
料理に使われている油をまきます。
火を放ちます。
 
箱を壊します。
箱を薪の上にのせます。
火が大きくなります。
人々は一斉に帰ります。
 
 
 
 
 
今、テロが世界中で起こっています。
ある人はドローンの犠牲になり
ある人は、銃撃され
ある人は、飛行機の中でテロにあったりします。
 
 
ガンなどの病気で死んでしまうひと
交通事故にあう人
自殺をする人
 
 
色々な死の迎え方があると思います。
 
 
僕は現在、良いのか悪いのか
死という現象から遠い世界を生きています。
 
 
幸せにも
家族はみんな元気です。
 
 
 
僕が初めて死を実感したのは、幼稚園ぐらいの時。
ひいおばあちゃんが亡くなったのです。
火葬場まで行きました。
 
後から聞いたのですが、おばあちゃんが、「一平に死を実感させてあげたい」
と連れて行ってくれたそうです。
 
人間専用のオーブンに連れていかれるひいあばあちゃんは
強烈に僕の記憶に残っています。
 
 
今振り返ると、たくさんの死があったなぁと思います。
が、次に大きな死は大学生の時です。
 
 
同じ学科の友達。
富士山にも行きました。(悪天候で登れませんでしたが)
 
 
バイトの帰りに
原付きに乗っていて事故にあった。
きっと生きていれば今頃
良い先生になっていたに違いない。
 
 
事故現場に行きました。
お花を供えました。
お葬式にも行きました。
めっちゃたくさんの人が来ていました。
みんな泣いていました。
僕はなぜか、あまり泣かなかった。
 
実感がわかんかった。
ようわからんかった。
明日からも普通に会えそうで。
どこかにおるんちゃうかて思うくらい急で。
 
もしかしたら、周りからは冷たい人やって思われてたかもしれん。
実際冷たいのかもしれん。
 
悲しいはずやけど
悲しくないというか。
悲しんではいけないというか。
 
死に関してちゃんと反応できていない気がする。
 
 
 
数週間前、フィジーに来てまもなくお世話になっていた
フィジー人の先生が亡くなったって聞いた。
この間まで、あんなに元気やったのに。
 
 
昨日、フィジーのドミトリーの番犬、ジャッキーが亡くなった。
よぼよぼやったけど、一緒に散歩もよくいった。
悲しいより先に、驚きが来る。
実感がわかない。
 
 
 
だから何が言いたいのかはよくわからんけど
 
 
誰かが死んでも時間は進む。
 
なんで悲しいはずやのに悲しくないのか。
 
そもそも死んで悲しむべきなのか。
 
 
インドのお葬式では笑っているひともいてんで。
フィリピンでは、踊りまくって死人を送りだすとか。
 
 
 
比べたらアカンと思うけど
鶏とか殺す時は、どちらかというと悲しいて言うより、嬉しいよな。
だって、チキンカレーが食べれる。
売ればお金になる。
 
 
ほんまに何言ってるかようかわらんな。
 
 
 
戦争とかテロとかはどんな感じで始まってしまうんやろ。
人を殺すのが正しいと思っているんかな。
どんなけ殺しても結局、死では解決できんてことなんやろうな。
 
何が争いを解決するんやろう。